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「わが心の歌」 第1話
文:稲葉和裕


ファン・クラブ・ニューズレターの連載コラム「わが心の歌」の第1曲目は、「アメリカ音楽の父」と呼ばれ、私の最も尊敬する作曲家のひとり、スティーヴン・コリンス・フォスター(Stephen Collins Foster 1826−1864)の代表作のひとつであり、ケンタッキー州の州歌にもなっている「My Old Kentucky Home(ケンタッキーの我が家)」です。

フォスターは、1826年にペンシルバニア州ピッツバーグで生まれ、1864年にニューヨーク州ボーウリーで37歳の若さで亡くなります。200曲以上を作曲し、彼の曲はミンストレル・ショー(※注1)などで多く演 奏されますが、当時はまだ著作権がなく、比較的安い金額で曲を売り、経済的な事情、創作面でのスランプや家庭の問題などでアルコール中毒に陥り、貧しく淋しく世を去りました。運悪く、南北戦争が勃発する寸前で人々が音楽を楽しむ余裕がなくなったことも彼の不幸の原因のひとつと言われています。アメリカ南部の生活や黒人の人々の目線で多くの名曲が残されていますが、南部へは、一度短期で訪れただけということは興味深いことです。南部の黒人の人々を主題にした名曲のインスピレーションは、この時期に得られたと言われています。

1850年にジェーン・マックドウェルと結婚後、1852年の夏に 蒸気船でミシシッピー河を下り、ケンタッキー州バーズタウン(※注2)のフェデラル・ヒルに住むフォスターの従兄弟のジョン・ローワンを訪ねたことから始まります。1818年に弁護士、ジョン・ローワンが建てたケンタッキー・コロニアル・マンション(煉瓦造りの3階建ての豪邸)で過ごした数週間が、以後のフォスターの作曲に大きく影響を及ぼすことになりました。現在では、この建物は「マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム州立公園」として保存され、一般にも公開されています。私も、その古く小さな町、バーズタウンを数回訪れたことがあります。150年前にフォスターが実際にいた町に自分がいると思うと、時の壁を飛び越え、なぜか嬉しくなってしまいました。バーズタウンでは、夏季のみ「フォスター・ストーリー」というフォスターの半生を描いたミュージカルが地元の俳優たちによって毎年、上演されています。野外劇場で日暮れから夜にかけて上演されるため、ホタルが飛んだり、自然とのコラボレーションがとても印象的でした。

さて、この歌の内容は、「綺麗な草原にある故郷の家」というイメージがありますが、実際のところは、やがては(南北)戦争が始まり、奴隷として奉公しているお屋敷を出て、家族も離れ離れになるかもしれないという不安と愁いが歌われています。オリジナルのタイトルの「My Old Kentucky Home, Goodnight」の「Good Night」は、「お休みなさい」ではなく、むしろ「さようなら」を意味しています。

私のアルバム「Dixie Dream」(CCCD-166)でも収録していますが、ブルーグラスでは、カリフォルニアでブルーグラスを広めたヴァーン・ウイリアムスの「Bluegrass From Gold Country」(Rounder)のヴァージョンが 有名です。
また、フォスターの曲を集めた秀作「Swanee」(NCD-206)でも聴くことができます。

このコラムでは、数回に分けてフォスターの人生と数曲をご紹介していきたいと思います。
次回もどうぞお楽しみに。





※注1− ミンストレル・ショーとは、 白人が顔を黒く塗って黒人風の訛りの歌と漫談で黒人を戯画化するショーのこと。
※注2−バーズタウンは、ケンタッキー州ルイヴィルから南へ車で1時間弱のところに位置し、ジム・ビーンやメイカーズ・マークなどバーボン・ウイスキーの名産地で、毎年9月にバーボン・フェスティバルが開催されています。


稲葉和裕ファンクラブ・ニューズレター Vol. 1
(2004年3月発行)





「わが心の歌」 第2話
文:稲葉和裕

アメリカ音楽の基盤を創ったと言っても過言ではないアメリカの最初の商業作曲家、スティーヴン・フォスターの第2話では、フォスターがこよなく愛した女性、ジェーン・デニー・マックドウェルと彼が残した名曲「金髪のジェニー」と「夢路より(ビューティフル・ドリーマー)」を取り上げます。

フォスターの幼少時代は、父親が会社経営をしており裕福な家庭環境で育ったので、恵まれた音楽教育を受けることができました。また黒人の家政婦さんが彼を(両親の許可をとって)よく黒人教会に連れて行ったりもしました。そこで、黒人の信者たちが歌うゴスペルや、ニグロ・スピリチュアルの旋律や歌詞に興味を持ったと言われています。ところが、その恵まれた環境は、父親の会社倒産という不運から永くは続きませんでした。フォスターは、苦労の多い生活ではありましたが、音楽を止めることはありませんでした。ある時、医者の娘、ジェーン・マックドウェルと知り合います。彼は、最初、彼女の美しい髪に心を奪われたと書き残しています。
身分の格差や両親の反対等の障害を乗り越え、1850年にフォスターは、めでたくジェーンと結婚します。時にフォスターは、24歳でした。
結婚後の1852年、ふたりでミッシシッピー河を下り、ケンタッキー州の親戚の家を訪問した直後に、「ケンタッキーの我が家」、「主人は眠る」などを作曲します。

1854年には、ジェーンの美しい髪をモチーフにして「金髪のジェニー(Jeanie With The Light Brown Hair)」が生まれました。記録では、彼の結婚生活は、約2年半ほどでうまくいかなくなったと残されています。原因は、経済的な問題、作曲活動での精神的スランプ、飲酒などが考えられます。ということは、「金髪のジェニー」が出版された1854年には、早くもフォスターとジェーンの間には、暗雲がたちこめていたと推測されます。歌詞のなかでも、「明るい茶色の髪をしたジェニーのことを夢見ています。やわらかい夏の空気に浮かぶ霧のように漂う」とジェニーを慕うメッセージが書かれています。(「ジェニー」は、ジェーンの愛称)

この後、社会的に南北戦争(1861〜1864年)の戦禍で、民衆が音楽を楽しむどころの環境や精神状態ではなくなったことや、フォスター自身の経済的危機、創作面でのスランプ、アルコール中毒などが重なり、1864年1月10日、ニューヨークの安アパートで、その数日前から熱と悪寒に悩まされていた彼は、顔を洗っている間に突然倒れ、首と顔に大けがをしてしまいました。ホテルのメイドによって発見されるまでにすでに大量に出血してしまっていたため、病院に運ばれた時にはもはや助かる見込みはなかったようです。彼は、37歳の若さで亡くなってしまいます。
彼の死後、「夢路より」が出版されます。「美しい夢見る人よ、どうぞ、私に目覚めて(気づいて)ください」と愛するジェーンに贈った曲と考えざるを得ません。精神的にも肉体的にも最悪の状態で、このような美しい曲をどうして書くことができたのか、私には不思議でなりません。しかし、彼は、亡くなるまで頭の中で次の曲のことを考えていたと思います。

フォスターが、亡くなった時、彼の服のポケットの中には、少しの小銭とある小さな紙切れが残されていました。その紙切れには、こう書かれていました。
「Dear friends and gentle hearts」(親愛なる友と優しき心)。
手紙の切れ端であったのか、新しい曲の一片だったのか、それは永遠の謎です。
どうぞ、ご想像ください。





稲葉和裕ファンクラブ・ニューズレター Vol. 2
(2004年6月発行)





「わが心の歌」第3話

文・稲葉和裕

カントリー・ファンであれば誰もが知っているハンク・ウイリアムスの「ユア・チーティン・ハート」や「ジャンバラヤ」。しかし、これらの名曲をハンク・ウイリアムスがどのような生活環境や精神状態で書いたかを知る人は多くないかもしれません。1949年ごろからアメリカ全米を一世風靡し、数多くのヒット・ソングを放ち続けるスターとしてのハンク、一方、1952年に入って、プライベートでは、妻、オードリーとの不和・離婚、そして肉体的苦痛で苦悩に満ち溢れたハンクが存在しました。「ユア・チーティン・ハート」、「コールド、コールド・ハート」、「ユー・ウィン・アゲイン」などは、オードリーとの関係を綴った歌と伝えられています。
また、ビリー・ジーンとの出会いから、再婚、そして再出発に賭ける意気込みで、気に入っていたニュー・オーリンズの料理をモチーフにした「ジャンバラヤ」や、アラバマのある湖のカワライジャと呼ばれる魚釣り小屋で浮かんだアイディアで「カウ・ライジャ」を発表することになりました。しかし、皮肉にも運命は、ハンクに突然の死をもたらしました。
ハンクの死は、今日でも謎の部分を残しています。本当の死因、そして、最後の48時間に何が起こったかは、決して知られることはないでしょう。連載コラムでは、再出発に向かおうとしていた「ハンク・ウイリアムスの最後の48時間」をご紹介させていただきたいと思います。しかしながら、結局のところ、ハンクが29歳で亡くなったということ以外は、どうでも良いことかもしれませんが…….

1952年12月30日、ハンクは、大晦日と元旦にウエスト・ヴァージニア州とオハイオ州で歌うためにギター、ステージ衣装、そして、比較的短いツアーに必要な物を、愛車であるベイビー・ブルーの1952年製のキャデラックに積み込んだ。午前11時30分、運転手に雇われた地元のタクシー会社の息子で18歳のオーバーン大学生、チャールズ・カーと共に、アラバマ州モントゴメリー、北マックドノウ通りにあるハンクの母親、リリーが経営する下宿を出発した。 ハンクは、白のカウボーイ・ハットにブーツ、白のカッターシャツにネクタイ、濃いブルーのパンツ、ネイビー・ブルーのコートといういでたちだった。その日は、雪嵐を含む、季節外れの寒波がアメリカ南東部を覆っていた。

二人は、モントゴメリー市内をドライヴし、ラジオ局を訪れたり、あるホテルで行われていた地元道路建設業者の集会に顔を出し、数杯のドリンクを楽しんだ。その後、これらから始まろうとしているウエスト・ヴァージニア州チャールストンまでの長旅に持病の背中痛を和らげるためのモルヒネの注射を打つためにストークス医師を訪れた。しかし、ハンクの息にアルコールを感じたスト−クス医師は、ハンクの依頼を拒否した。そして、ハンクは、別の医者に注射してもらい、午後2時前後、二人はハイウェー31号線をアラバマ州バーミンガムとテネシー州ノックスヴィルを経由して、ウエスト・ヴァージニアに向かう旅に出た。

後に、チャールズは、モントゴメリーから1時間半ほど経過したバーミンガムの北に差し掛かる頃のハンクは、いたって元気で、会話や歌を楽しむほどであったと回想している。30日の夜は、バーミンガムのレッドモント(ホテル)で休むことになる。雪嵐で、彼らはこれ以上の旅を続けられなくなった。チェックインにかかった30分間ほどの間に、すでに3名の女性がハンクの部屋がどこなのか突き止めていた。ハンクが、女性たちにどこから来たのか尋ねると、ある女性が「天国から」と答えた。ハンクは、彼女に「俺は、地獄にいくところさ」と答えた。いずれ、女性たちは去り、ハンクとチャールズは、ルーム・サービスで夕食をオーダーした。

翌日、12月31日の早朝、ふたりはホテルをチェックアウトし、彼らの旅を再開した。ハンクは、車内に何がしかのアルコールを持ち込んだと思われる。ハンクは、助手席に座り、運転するチャールズに「ジャンバラヤ」をどう思うか尋ねた。チャールズは、歌詞にフランス語が入っているし、あまり意味が良く分からない曲だと答えた。テネシー州チャタヌーガに着く前には、再び雪が降り始め、午前10時30分ごろテネシー州ノックスヴィルを経過する頃には、飛行機を使わない限り、彼の出番までにウエスト・ヴァージニア州チャールストンに到着することは不可能だということが明らかになった。彼らは、空港に向かい、午後3時30分のフライトを予約し、チャールズがWNOX(ラジオ局)のカス・ウォーカーに電話し、「ミッド・デイ・メリー・ゴー・ランド」(ラジオ番組)に出演すると告げた。しかし、ハンクが姿を現すことはなかった。

午後3時30分に離陸した飛行機は、悪天候のため、元の空港に引返した。飛行機が、戻ったのが午後6時前のことであった。チャールズは、ノックスヴィル市内のアンドリュー・ジャクソン・ホテルに午後7時8分、チェックインした。ハンクは、すでに二人のポーターに両腕を抱きかかえられなければ、彼の部屋に入ることができなくなっていた。チャールズは、ステーキを2人前注文したが、ハンクは少しだけしか食べることができず、すぐにベッドに横になった。その後、ハンクは、ベッドから床に落ちた。(第4話に続く)





稲葉和裕ファンクラブ・ニューズレター Vol. 3
(2004年9月発行)





「わが心の歌」第4話
文・稲葉和裕


「ハンク・ウイリアムスの最後の48時間」の後編です。(第3話から続く)

ハンクに軽い身もだえを起こす原因となるしゃっくりが出始めたため、チャールズは、ホテルの部屋に医者を呼んだ。P. H. カードウェル医師は、ビタミンB12を混ぜたモルヒネを2本、ハンクに注射した。チャールズは、プロモーターのA.V. バムフォードに電話し、31日のチャールストンでの出演は不可能だと伝えた。バムフォードは、チャールズに翌日、1月1日午後2時にオハイオ州キャントンで開催される「マティーニ・ショー」には必ず出演するように伝えた。バムフォードとのやり取りで、チャールズは、生気のないハンクを数名のポーターで再び車に運び込むことになった。彼らがハンクを運ぶ際、ひとりのポーターが、ハンクがぜーぜー息をするのを聴いている。彼らは、ハンクの(死の直前にがらがら)喉のなる音に気づかず、彼の胸元でV字に両腕を交差させ、オーバーコートをかけ、キャデラックの後部座席に横に寝かせた。チャールズは、キャントンに向かうためノックスヴィルを午後10時45分に出発した。

ノックスヴィルを出て1時間後(12月31日午後11時45分前後)、チャールズは、テネシー州ブレインでスワン・キッツ警官に車を止められた。チャールズが、ある車を追い越す際に、反対車線を走行してきたキッツ警官の車に衝突しそうになったからだ。チャールズは、キッツ警官にハンクをキャントンまで運んでいる途中で、その出演にはどうしても遅れることができない旨を説明した。キッツ警官は、ハンクの普通ではない状態をチャールズに尋ねた。チャールズは、ハンクは飲酒しており、鎮静剤を投与したと説明した。キッツ警官は、あえてハンクを起こすことはせず、テネシー州ラットレッジまで先導した。チャールズは、危険な運転をした罰に25ドルの罰金を課せられた。後に、キッツ警官は、職業柄、死体をよく見ることが多く、横たわったハンクの姿を見て、すでに死んでいると感じたと証言している。

1953年1月1日午前1時、チャールズは、ラットレッジを出て、キャントンに向かった。
ほとんど24時間休憩なしで運転し続けたチャールズに疲れが出始めた。テネシー州ブリストルで止まり、リリーフ運転手として地元のタクシー運転手、ドナルド・サーフェイスを雇った。サーフェイスは、しばらく運転したが、チャールズは彼をウエスト・ヴァージニア州のどこかで降ろすことに決めた。チャールズは、ブルー・フィールドかプリンストンあたりで、コーヒー・ブレイクを入れた。1日の早朝、後部座席で横たわるハンクのオーバーコートをかけ直し、乱れた両腕をホテルのポーターが置いた位置に戻そうとした時、ハンクの手が冷たく、硬直していることに気づいた。午前5時30分ごろ、チャールズは、バーデッツ・ピュア・オイル・ステーションに車を止め、従業員に助けを求めた。彼らは、ハンクを起こそうとしたが、無駄だった。彼らは、チャールズに病院はここからたった6マイル(約10キロ)のところにあると教えた。

チャールズは、大きなUターンをきってオーク・ヒル・ホスピタルの玄関に横付けすると、ふたりの病院付添い人がハンクのわきの下と両足を抱きかかえ、緊急処置室に運び込んだ。
ハンク・ウイリアムスは、ディエゴ・ナンナリ医師により、1953年1月1日午前7時死亡と公表された。医師は、ハンクが恐らく6時間ほど前に死亡していたと推測したが、正確な死亡時刻を決定することはできなかった。
ハンクの遺体は、通りの反対側のタイリー葬儀店に運ばれ、そこで検死が行われた。検死を行ったアーヴェン・マリニン医師は、ロシアのインターン医師でほとんど英語を話すことができなかった。彼の記録には、ハンクの両腕には注射針の痕、体のあちこちに打ち傷、額に打撲痕、心臓と首に出血があったと書き残されている。血液中にアルコールは認められたが、薬物は検出されなかった。公表された死亡の原因は、急性心臓麻痺だった。

キャントン・メモリアル・オードトリアムには、ハンクを一目見ようと多くのファンが詰め寄せていた。ショーの冒頭で、司会のクリフ・ロジャーズがこう言った。「20年もの間、このような仕事をしてきて、いくつもの困難を経験してきましたが、今日ほど辛い日はありません。なぜなら、ハンク・ウイリアムスが今朝、このショーに出演するためにキャントンに向かう車の中で亡くなったからです。」 観衆は、質の悪いジョークだと思った。一足早く到着していたドリフティング・カウボーイズのメンバーは、失意に打ちひしがれながらもカーテンの向こうで「アイ・ソー・ザ・ライト」を演奏し、その後、ショーが始まった。

ハンクが、生前、好きだった言葉(歌)を思い出します。
「俺は、生きてこの世は出られないぜ(I'll never get out of this world alive.)」





稲葉和裕ファンクラブ・ニューズレター Vol. 4
(2004年12月発行)





「わが心の歌」第5話
文・稲葉和裕

今回の「わが心の歌」では、私の大好きな曲であり、また、多くの皆様からリクエストをいただく「Lorena(ロリーナ)」をご紹介します。
美しいメロディーとセンチメンタルな歌詞で綴られたこの曲は、南北戦争時(1861-1865)、北軍と南軍の両軍の兵士によって最も愛されたバラードのひとつです。



オハイオ州ゼィンズヴィルの牧師、ヘンリー・D・L・ウェブスター(Henry De Lafayette Webster/1824-1896)が、自らの体験から、実らなかった恋を詩に綴りました。ウェブスターは、エラ・ブロックソンという女性と恋に落ち、彼女に婚約を申し出ました。しかし、エラの両親が、身分の低い普遍救済説信者(万人は、結局救済されるという神学説信者)の牧師との結婚に反対し、エラに圧力をかけました。
婚約を断られ、心破れたウェブスターは、彼女のことを想い、長い詩を書きました。
彼は、エラの実名の代わりに、エドガー・アラン・ポウ(1809-1849)の薄気味い悪い詩「大ガラス(The Raven)」に書かれていた女性の名前「レノア(Lenore)」を参考にして、この詩を「ロリーナ」と名づけました。

ウェブスターの友人で作曲家のジョゼフ・P・ウェブスター(Joseph Philbrick Webster/1819-1875)が、この詩にメロディーをつけ、1857年、イリノイ州シカゴで出版されることになりました。(ジョゼフ・P・ウェブスターは、1,000曲以上を作曲し、そのひとつに有名な賛美歌、「In The Sweet By And By」があります。)

「ロリーナ」は、6番まである長い歌です。本コラムでは、心に沁みるラスト・ヴァースをご紹介します。



It matters little now, Lorena
The past is in the eternal past
Our heads will soon lie low, Lorena
Life's tide is ebbing out so fast

There is a Future! O, thank God!
Of life this is so small a part!
‘tis dust to dust beneath the sod
But there, up there, ‘tis heart to heart

今となっては、もうどうでもいいことさ、ロリーナ
過去のことは、もう永遠の過去の中だから
天に召される時も近いよ、ロリーナ
人生の潮が、大急ぎで引いているから

でも、未来があるよ!神様に感謝します!
これは、人生にとって、ほんの小さな一部分なんだ
土のなかでは、お互いが灰と灰になるけれど
天国では、心と心が結ばれるのさ



最前線で、最愛の恋人や妻を想い、「地上では成就できなかったこの恋が、天国でのみ満たされることができる」と信じて、命を賭けて戦った兵士たちが愛した歌、「ロリーナ」。

ある南軍の司令官の証言では、南軍の敗因のひとつは、「ロリーナ」にあったとも語られるほどです。
また、第26ノース・キャロライナ連隊音楽隊が、戦禍のなか、北軍に囚われることを逃れるために、山中の民家に身を潜めていました。この音楽隊は、自分たちを匿い、食事を施してくれた女性のために、「ロリーナ」を演奏しました。そして、それが、4日後に捕虜となる彼らの最期の演奏となりました。
南北戦争終結後、南部の多くの女の子に「ロリーナ」と名づけられました。

私は、この曲を歌う時はいつでも、単にラヴ・ソングとしてではなく、奥行きの深い、多くの人々の魂が宿っている歌だと思って歌っています。





稲葉和裕ファンクラブ・ニューズレター Vol. 5
(2005年3月発行)






「わが心の歌」第6話
文・稲葉和裕


今回の「わが心の歌」では、2003年にカパー・クリーク・レコードから発表されました私の5枚目のソロ・アルバム「ティアドロップ・オン・ナ・ローズ」にも収録されています世界的に有名な曲、「ダニー・ボーイ」をご紹介したいと思います。


1910年、イギリスの弁護士で作詞・作曲家のフレデリック・エドワード・ウェザリー(1848〜1929)が「ダニー・ボーイ」という詞を書きました。
しかし、この詞につける適当なメロディーがないまま寝かせていました。2年後の1912年、ウェザリーは、アメリカに住んでいた義妹からアイルランド民謡である「ロンドンデリー・エアー」の楽譜を受け取ります。それを見たウェザリーは、「ダニー・ボーイ」の詞がこの曲によく合うことに気がつき、元の詞を若干手直しして、「ロンドンデリー・エアー」のメロディーに当てはめました。そして、「ダニー・ボーイ」は、1913年にニューヨークで出版され、やがて世界中に広まりました。

「ダニー・ボーイ」は、切ないラヴ・ソングのように聞こえますが、この歌詞は出征するわが子を送る親の愛が書かれています。
「あなたは(戦争に)行ってしまうのに、私は、留まらなければならない。しかし、夏が牧草地に戻ってくる時でも、谷が雪で白くなり、静寂に包まれた時でも戻っておいで、なぜなら、私は、ずっとここに居るから、ダニーよ、愛しているよ」
2番では、もしも、戦争が長引き、年老いた親は、息子が戻ってきた時には自分が死んでいるかもしれないと心配します。その時は、土の下で眠っている親の上にひざまずき、「愛しているよ」と言ってくれると信じる親の気持ちが綴られています。
「ダニー・ボーイ」が発表された年は、第一次世界大戦(1914〜1918)勃発の前年で、世界中が戦争の予感におびえていた時で、この曲が急速に普及した理由のひとつと考えられます。

原曲となった「ロンドンデリー・エアー」は、1855年に、古くから伝わるアイルランド民謡のひとつとして「The Ancient Music of Ireland」に発表されて、アイルランド、スコットランド地方に広まりました。この美しいメロディーにのせて作られた歌詞は、なんと100以上あると言われています。(ちなみに、ロンドンデリーという地名はアイルランドのもので、イギリスのロンドンとは無関係です。)

その後、「ダニー・ボーイ」は、第二次世界大戦中(1939〜1945)にビング・クロスビーにより歌われ、そして、戦後はハリー・ベラフォンテらによって歌われて、益々ポピュラーになっていきました。
1990年の「メンフィス・ベル」という映画では、ハリー・コニック Jr.がピアノで弾き語りを披露したり、エンディングでずっと流れていたりとサウンド・トラックとして使われました。
今や、グレン・キャンベル、ウイリー・ネルソンら多くの有名アーティストにもカバーされています。エリック・クラプトンのシングル「チェンジ・ザ・ワールド」のB面に、ガット・ギターとストリングスでのインスト・バージョンが収められています。

私のレコーディングでは、キース・リトルが繊細なギターとアレンジを担当してくれたお陰で、私は、ヴォーカルにのみ集中して歌うことができました。バディー・スパイカーは、人の声に最も近いと言われるヴィオラをメインに使い、2番のコーラスのバックでは、ヴァイオリンを数本オーバーダブ(多重録音)してストリングスの厚みを加えてくれています。また、音楽で一番大切なリズムを担うボブ・ムーアのベースの旋律をよくお聴きください。下へ下へと落ちていく音程やビートなど、ナッシュヴィルで無数のセッションを繰り返してきた達人の名人芸だと思います。

ウェザリーは、生涯一度として、「ロンドンデリー・エアー」の生まれたアイルランドに足を踏み入れたことがなかったそうです。





稲葉和裕ファンクラブ・ニューズレター Vol. 6
(2005年7月発行)





「わが心の歌」第7話
文・稲葉和裕


今回の「わが心の歌」では、日本でも多くの人々に知られている賛美歌、「慈しみ深き友なるイエス」(What A Friend We Have In Jesu)をご紹介したいと思います日本では、明治時代に杉谷代水の作詞により、「星の界」として歌われてきました。


ジョゼフ・スクライヴェン(Joseph Scriven 1819-1886)は、アイルランドのダブリンの成功した両親のもとに1819年に生まれ、ダブリンのトリニティ・カレッジを文学士の学位で卒業しました。
彼が23歳の時に、バンブリッジのある女性と恋に落ち、2年後、婚約しました。
しかし、悲劇は、結婚式の前夜に起こりました。川の向こう岸で待つスクライヴェンの目の前で、バン川を渡る橋の上で、彼女は馬から振り落とされて川に転落し、溺死してしまいます。この悲しい出来事の直後、25歳のスクライヴェンは、生まれ育ったアイルランドを去り、カナダへ移住することを決意しました。

カナダに移ったスクライヴェンは、以前とは全く異なる生活を始めました。必要ならば、自分が身につけている衣服や所有物を他人に与えたり、助けを求める者には、一度も拒絶しなかったと言われています。また、彼は、手間賃を支払うことができない貧しい未亡人、老人や病人のためだけに薪割りなどの日常の雑用をしました。そんな彼は、一部の人々には尊重されましたが、一方、偏心的であるとも思われました。

移住先のカナダでも、さらに悲劇がスクライヴェンに起ることになります。1854年、エリザ・ロチェ嬢と結婚することになっていましたが、ロチェ嬢は、ライス湖の浸水が原因で間欠熱に侵され、3年後に亡くなってしまいます。
2度も結婚相手を失う大きな悲しみと絶望感のなかで、この曲が誕生することになります。

1857年、スクライヴェンは、度重なる悲劇の心痛と、ダブリンで重い病気に苦しむ母親のために、また、彼女のそばにいることができない理由からこの詩を書いたのです。彼は、この詩を出版する目的で書いたのではありませんでした。
彼自身が病気だったある時、彼を訪れた友人が、偶然にベッドの近くの紙切れに書きなぐられていた一編の詩を見つけました。その友人は、鋭い興味をもってその詩を読み、誰がこの詩を書いたのか彼に尋ねました。謙遜する気質のスクライヴェンは、「主と私が、私たちの間で書きました」と答えました。
1869年に、彼の小さな詩集が公表されました。その詩集のタイトルは単に、「賛美歌および他の詩(Hymns And Other Verses)」と題されているだけでした。
また、当時、この詩には、「絶え間なき祈り」(Pray Without Ceasing)と名づけられていました。

詩であった「絶え間なき祈り」が、人々の感性に訴えかけるメロディーをもったのは、アメリカの作曲家、チャールズ・コンヴァース(Charles C. Converse 1834-1918)の功績を忘れることができません。コンヴァースは、この詩にいたく感動し、1868年にメロディーをつけたと言われています。

1875年、アイラ・サンキー(Ira D. Sankey)は、彼の有名な福音賛美歌集を出版する直前にこの曲を発見し、最後にこの曲を歌集に加えました。サンキーは、こう残しています。「歌集に入った最後の賛美歌が、最も人気のある曲になりました。」

1886年のある日の午後、友人が病気がちのスクライヴェンの具合を看にきました。普段と変わらなかった彼を夜に再び、訪れた時、彼の部屋に彼の姿はありませんでした。捜索隊が出ましたが、その夜、彼を見つけることはできませんでした。翌日の午後、川で溺死したスクライヴェンが発見されました。二人の大切な女性を亡くした彼もまた、皮肉にも、川で命を亡くしてしまいました。彼の死が、事故なのか、自殺なのかは、誰にも分かりません。

「慈しみ深き友なるイエス」は、スクライヴェンの魂が深く宿る名曲です。これからも多くの人々に歌われ、多くの人々が慰されるでしょう。





稲葉和裕ファンクラブ・ニューズレター Vol. 7
(2005年10月発行)





「わが心の歌」第8話
文・稲葉和裕

今回の「わが心の歌」では、ブルーグラス音楽の創始者、ビル・モンロー(1911-1996)の代表作として知られる「ケンタッキーの青い月(Blue Moon Of Kentucky)」をご紹介いたします。


1946年9月16日と17日の二日間で、35歳のモンローは、名ヴォーカリスト、レスター・フラット、バンジョーの神様、アール・スクラッグス、フィドルの名人、チャビー・ワイズ、そして、名ベーシスト、ハワード・ワッツ(別名セドリック・レインウォーター)というブルーグラス音楽における最も重要なミュージシャンを自らのバンド「ブルーグラス・ボーイズ」に配し、ブルーグラス音楽における歴史的な録音をコロンビア・レーベルに残しました。 その中に、「ケンタッキーの青い月」が含まれていました。哀愁に溢れたフィドルのイントロから、ハイ・テナー・ヴォイスのモンローが、「ケンタッキーの青い月よ、さよならを告げて、突然いなくなってしまった恋人を照らし続けておくれ」という切ない失恋の歌を全編ワルツで歌っています。そして、この曲は、グランド・オール・オープリーのスター、ビル・モンローのトレード・マークになりました。

テネシー州メンフィスで、1954年7月6日、ある若いトラック運転手がメンフィス・レコーディング・スタジオで「ザッツ・オーライト・ママ」と「ケンタッキーの青い月」を録音しました。彼の名は、エルヴィス・プレスリー(1935-1977)。同年1月、スーパー・スターであるハンク・ウイリアムスの突然の死が、エルヴィスを奮起させ、行動を起こさせました。不調なレコーディングの休憩時に、ベース奏者、ビル・ブラックが、モンローのワルツ曲である「ケンタッキーの青い月」をふざけてロカビリー風のアップ・テンポで歌いだしました。意気消沈して横で聴いていたエルヴィスが、「これだ!」と思い立ち、直ちにレコーディングが再開されました。スタジオで偶然に決まったこれらの2曲が、エルヴィスのデビュー曲となり、ロック音楽の誕生となりました。

同年の数ヵ月後、エルヴィスは、この「ケンタッキーの青い月」で念願のオープリー・デビューを果しますが、保守的なオープリー関係者からは酷評を受け、エルヴィスは涙ながらにメンフィスに帰ったと伝えられています。また、エルヴィスは、モンローのファンでもあり、作者であるモンローに無断で曲をアレンジしたことに謝罪したそうです。

オープリーでの評価とは裏腹に、全米でのエルヴィスの人気は急激に高まり、「ケンタキーの青い月」もヒット・ナンバーとなりました。そして、モンローは、'50年代後期の同曲の再録音の際、オリジナル同様ワルツから始まりますが、途中からアップ・テンポに変わるアレンジに変更しています。あの頑固だったモンローが、エルヴィスのアイディアを取り入れたのです。このアレンジが、「ケンタッキーの青い月」のスタンダードとなりました。

「ケンタッキーの青い月」は、スタンレー・ブラザーズ、オズボーン・ブラザーズ、パッツー・クライン、ポール・マッカートニー、近年では、リアン・ライムスら多くのアーティストによってカヴァーされています。
そう、私の「ディキシー・ドリーム」にも...。

ブルーグラス音楽のひとつの特徴として、淋しい曲でもアップテンポで軽快に歌い飛ばすことがあります。悲しさや淋しさをあえてスピードアップして歌う芸術性は、粘り強い南部魂の表現方法だったかもしれません。





稲葉和裕ファンクラブ・ニューズレター Vol. 8
(2005年12月発行)






連載コラム
「わが心の歌」第9話
文・稲葉和裕

[カントリー・ソングのなかには、世界的に有名になった曲が数曲あります。"You Are My Sunshine"が、正にそのひとつだと思います。
今回は、その作者と背景をご紹介したいと思います。


軽快なリズムにのって「君は僕の太陽だ、唯一の太陽だ」と、愛に満ちた幸せそうな曲に聞こえますが、歌詞の内容が進むにつれて、カントリーお決まりの切ないラヴ・ソングであることに気づくでしょう。「ある夜、君を抱きしめている夢を見たが、目が覚めたら、現実は寂しく、落ち込んでしまうよ かつては好きだと言ってくれたのに、今では君は他の人を好きになってしまったのさ」と続き、最後には「君が、僕の夢を閉ざしてしまった」とくくられます。
誰にでも1度や2度の経験があるような失恋の経験、その悲哀を明るい曲調で表現するのが、カントリー・ミュージックの特徴のひとつと言えるでしょう。

作者は、ジミー・デイヴィス(Jimmie Davis 1899-2000)とチャールズ・ミッチェルの共作とされています。
ルイジアナ州生まれのデイヴィスは、11人の子供を持った貧しい小作人の息子で、彼は貧困から抜け出すには学問しかないと覚ります。彼のおかれた環境では異例でしたが、ルイジアナ州立大学を卒業したデイヴィスは、'20年代にはラジオ・タレントとして、'30年代はカントリー・ウエスタンの歌手として活動しました。ルイジアナ州シュリーヴポートのダッド女子大学で社会学と歴史の教鞭をとり、'44年〜'48年と'60年〜'64年の二期、ルイジアナ州知事を務めることになります。'44年の「歌う知事」の立候補の演説時には、"You Are My Sunshine"が選挙のキャンペーン・ソングとして使われました。キャンペーンでは、'Davis is my sunshine!'と歌われたようです。

'40年にデイヴィスが"You Are My Sunshine"をレコーディングした後、ビング・クロスビー、ジーン・オートリー、レイ・チャールズ、アンドリュー・シスターズらによってカヴァーされ世界的にポピュラーになっていきました。特に、ビング・クロスビーのカヴァーがこの曲をよりポピュラーにしたと考えられます。約65年の間に、350名以上のアーティストによって、また、30ケ国以上の言語に翻訳されて録音されているのにも驚かされます。

デイヴィスは、州知事任期後も歌手活動を続け、'70年代はゴスペルの領域にたずさわることになります。 '72年には、名誉のカントリー・ミュージックの殿堂入りを果します。'77年に"You Are My Sunshine"は、"Give Me Louisiana"に継いで2曲目のルイジアナ州の州歌となり、彼はカントリー界及びルイジアナ州の政治の歴史において愛された人物となりました。

他にもデイヴィスのペンとなる曲は、"It Makes No Difference Now"、"There's A New Moon Over My Shoulder"、"Nobody's Darling But Mine"などがあります。

最後に、デイヴィスの知名度、そして政界での名誉を支える要因となった"You Are My Sunshine"は、デイヴィスがルイジアナ州立大学の大学院在籍中に作曲し、バンド仲間のミッチェルとの著作になっていますが、歴史的にはこれと違う事実が存在します。実は、デイヴィスが録音する6ヶ月前('39年8月22日)に、パイン・リッジ・ボ−イズというバンドが録音していました。その1ケ月後(同年9月13日)、ライス・ブラザーズ・ギャングが著作権を取り、同曲を録音したのです。デイヴィスが、ポール・ライスに35ドルを支払ってこの曲の権利を購入したのです。ライスは、入院中の妻の医療費を支払うために現金が必要だったという説、また、単にアルコールを買うお金が欲しかったという説があります。デイヴィスの録音は、その翌年の'40年2月5日と記録されています。

現代の音楽業界にもゴースト・ライターが多く存在するように、当時も曲を買ったり、売ったりする行為は珍しくなかったのです。これらの事実と共に、歌、そして、カントリー・ミュージックが存在しています。歌の背景にある事実に触れることにより、曲との距離がより近くなるように思います。

参考文献 三井徹著「ユウ・アー・マイ・サンシャイン物語」





稲葉和裕ファンクラブ・ニューズレター Vol. 9
(2006年6月発行)






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